ハインリッヒ・シュリーマン「シュリーマン旅行記 清国・日本」(石井和子訳 1992)を講談社学術文庫(1998)を読む。
この本はフランス語で書かれ「La Chine et le Japon au temps présent」というタイトルで1869年にパリで出版された。
自分、ハインリヒ・シュリーマン(Heinrich Schliemann, 1822-1890)が幕末日本を訪れていたことは知っていたのだが、有名なトロイア遺跡発掘の6年前のことだとは知らなかった。それも中国・上海→天津→北京→万里の長城と見て回ってから横浜へ来ていた。
シュリーマンは北ドイツに生れ、アムステルダム、モスクワ、サンクトペテルブルク、そしてアメリカと国際的に活動した商人。お金持ち。このインド、東アジア旅行後にアマチュア考古学者へ転向。
1865年5月3日「古北口(満洲国境)にて」という書き出し
- 4月20日朝5時に蒸気船「燕子飛号」(上海・呉淞港)に乗船。航程は59時間、船賃は80テール(720フラン)
- 天津が「町並みはぞっとするほど不潔で、通行人は絶えず不快感に悩まされている。「唯一可能な乗り物「二輪馬車」が欧州人にとっては拷問のようなもの。「シナ人が平気だとしたら、それは彼らの神経系統の欠陥ないし特質によるとしか考えられない。」
- 北京の城壁が威圧的で壮大。
- 城壁の内側にホテルのようなものはない。仏教寺院で1日6フランで部屋を借りる。
- 召使が手に入れてきた緑茶が「ヨーロッパならどんな貧しい労働者でも欲しがらないような代物」
- どこへ行っても、陽光を遮り、呼吸を苦しくさせるひどい埃
- 「シナでは、女性の美しさは足の小ささだけで計られる。9センチあまりの小さな足の持ち主ならば、疱瘡の跡があろうが、歯が欠けていようが、禿頭だろうが、12センチの足の女性よりも百倍美しいとされる。」
- シナ人は偏執的なまでに賭け事が好きであり、貧しい労働者でも、ただ同然で食事にありつけるかもしれないというはかない望みに賭けて、自分の食い扶持の二倍ないし四倍の金をすってしまう危険をものともしない。
- 外国人が古北口まで来たことはめったにないから大騒ぎになった。オランウータンかゴリラが服を着てパリの大通りを歩いても、私ほど好奇の的にはならなかったのではないだろうか。
- 長城を見るために来たと答えると、みんな大口を開けて笑い出した。石を見るためだけに長く辛い旅をするなんて何て馬鹿な男だろうというわけだ。
- 苦労して丘を登って長城を見て、私は呆然自失し、言葉もなくただ感嘆と熱狂に身をゆだねた。かくも多くの驚異を見ることに慣れることはできなかった。ごく幼いころから話に聞いては好奇心をそそられていたシナのこの万里の長城、それが今、想像の百倍以上の威容をもって目の前に迫っていた。
- 阿片愛飲者は北に行くにつれて減少する。天津、北京ではごくわずかな人々にしか、この麻薬の災禍を認められなかった。
- 清国では石炭の値段が高いので、蒸気船の運賃が高い。
- 上海での生活はきわめて過酷。まず、河で泳げば溺死してしまう。真水はコニャックでもまぜないかぎり飲めたものではないし、飲み続けていると体に変調をきたす。
- ここの気候はひどく健康に悪い。
- 劇場の歌と音楽の魅力がわからない。シナ人はハーモニーとかメロディーとかがどんなものかまったく理解していない。
- 香港は海賊ジャンク船がスペイン船を襲う。
そんなこんなの清国旅行。
そして、シュリーマンは上海から登用蒸気船会社の北京号で横浜へ。3日たらずの航程に100テール(900フラン)も払う。1865年6月4日、横浜上陸。
- 横浜で見た小舟をあやつる男たちは、一本の細い下帯だけ。体中に入れ墨。
- 船頭たちが私を埠頭に下すのに四天保銭(13スー)しか請求しない。
- 人口4千人の横浜を見物。日本には煙突が一本もない。
- 日本人はみんな園芸愛好家。
- 日本の家には家具の類がいっさいない。火鉢しかない。
- 日本人が世界でいちばん清潔な国民であることは異論の余地がない。どんなに貧しい人でも、少なくとも日に一度は、町のいたるところにある公衆浴場に通っている。
- 皮膚病の人が多い。疥癬病みでない下僕を見つけることは難しい。原因は生魚か?
- 父母、夫婦、兄妹、すべてのものが男女混浴を容認している。
- 「日本の権力者たちは、長い経験と人間性についての洞察によって、ある完全な答えを得ていたにちがいない。彼らは、公衆浴場で民衆が自由にしゃべりたいことをしゃべっても、国家安泰にはいっこうに差支えがないと判断したのである。」
- 日本政府は、売春を是認し奨励するいっぽうで、結婚も保護している。
- 日本では売春婦は社会的身分としてかならずしも恥辱とか不名誉とかを伴うものでない。
- シュリーマンは程ヶ谷で京へ向かう大君(将軍家茂)の行列を見物。細かく観察。
- 行列の翌日、東海道の道の真ん中に切り刻まれた3つの死体を発見。横浜で聴いた話だと、行列を知らずに数歩先を横切ってしまった農民、切り捨てる命令に従うのをためらった部下、激怒して部下の脳天を割った下士官、3人の死体らしい。下士官を気が狂ってると一突きで殺した上級士官がいたらしい。
シュリーマン一行には厳重な警備がつくほどに、慶応年間の江戸は治安が悪かった。シュリーマン一行は善福寺付近で暗殺された通詞ヒュースケンの墓所を訪れてる。
馬を借りて横浜から生糸と手工業のまち八王子へも出向いてる。
あと、団子坂で盆栽などを見た後に王子権現(王子神社)周辺を散策し詳しく書いている。シュリーマンが王子神社に来たって、自分は何度も王子神社に行ったことあるのにまったく知らなかった。王子神社には昔は朱塗りの仁王像があったってマジ?
あと、音無川にあった有名な茶屋(木造二階建て。扇屋か?)で昼食を食べている。昔、そこに本屋があったのでよく行った。
9月2日に横浜港からサンフランシスコへ出航。翌年、パリに落ち着いて考古学の勉強を始める…。
あと、この本の巻末解説でトーマス・グラバーの長男・倉場富三郎のことを知った。この人はアーネスト・サトウと愛人の子という噂もあるらしい。
この人は学習院卒業後、ケンブリッジ大、ペンシルベニア大で学んだ後に長崎に帰国。日本にトロール漁法を導入発展させた。だが、戦争中は敵国人として監視され、戦艦武蔵建造中の三菱重工長崎造船所を見下ろす位置にあったグラバー邸を退去させられ、長崎に原爆が投下後に大浦の自宅で縊死するという悲劇の人。
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