川喜田二郎「鳥葬の国 秘境ヒマラヤ探検記」を1992年講談社学術文庫版で読む。
この本は京都大学生物誌研究会と日本民俗学協会の後援によって1958年の春から秋に渡って、ヒマラヤ・ダウラギリ峰北方の高原、ネパール北西部にあるトルボ地方のチベット人たちのツァルカ村に日本人隊員8名が長期滞在して村の民俗風習社会をフィールド調査した紀行記。
今回読んだ版は1981年に同タイトルで出版されたものを底本としている。1960年に光文社から最初の本が出ている。1974年に講談社から再販のときの川喜田隊長の序文が付いている。そのときに隊員たちの同窓会と対談も収録。
川喜田隊長が1958年当時38歳。他7名は全員二十代。おそらく昭和ヒトケタと言われる世代。この当時は日本も貧しく持ち出せる外貨はわずかしかない。中国側からチベットに入ることは許可を得る以前に交渉すらも不可能。(1950年に人民解放軍が侵攻。ダライラマ14世が亡命するに至ったチベット蜂起は1959年。)
よってインド・ネパール側から人夫を雇ってキャラバンで現地を目指す。現地に行くまでの準備やら苦労話パートが長い。
カンジロバヒマールへの登山と現地の民族と風習の調査が目的。だが当時はまだ「調査=スパイ活動」と考えられていた。なのでネパール政府から連絡将校がついて、撮影するときはいちいち許可が必要。
なお、このときの探検と取材は読売新聞社によって「秘境ヒマラヤ」(1960 松竹)として公開。
探検記とは言っても、リビングストンとスタンレーのアフリカ探検や、ヘディンやスタインらによる中央アジア探検とは雰囲気が異なる。探検と呼ぶのはふさわしくないかもしれない。1950年代はネパールのへき地といっても人々は外国人というものを知っている。カメラも知っている。
日本人隊員たちがツァルカ村で第一村人とファーストコンタクトしたときの最初の心の声が「きたないチベット人の中でも一段ときたない!」なのは笑った。もうちょっとオブラートに包め。
あとはひたすら村人たちとの交流と観察。外国人が長期滞在するとか、村人たちにとってはたぶん緊張状態。
隊員たちが顔を洗ったり髭を剃ったりするのを見て、村人たちも顔を洗い始めたというのはちょっと面白かった。
チベット人はヤクを解体することに慣れている。その辺に脚が転がってるとか、現代日本人からすると怖い。
日本隊は村滞在中に4回も葬式に遭遇。村からすると外国人がいるから不吉なことが起こるのでは?と思わないのか?それは心配。
村長の息子が原因不明で死亡。母が、ちょっと尋常じゃないレベルで泣きじゃくり続けている。介添えのなぐさめ役も形式的誇張が過ぎてる感じ。女たちがとくに声をあげて泣き続ける。
ここ読んで、金日成、金正日が死んだときの北朝鮮国民を想い出した。当時の日本のメディアはそこ興味深そうに放送してたけど、それがアジアでは普通なのかもしれない。昭和天皇が崩御したときの日本人の静かな哀しみと対照的。
食材や物資は現地で調達するのだが、携帯できる金が貴重なのはわかるのだが、あんまり値切るなよって思った。
あと、写真を撮らせてもらうときに金を渡すのも考え物。あっという間に村中に広まると、以後撮影のたびに金を要求。
そしてこの本のクライマックスが「鳥葬」。死人が出ると「鳥葬が撮れる!」といきり立つ取材班。
しかし、現地の人からすると「撮影とか絶対ダメ!」ま、それはそうだ。
だが、強引に「遠くからなら」と許可を得て観察と撮影。それってどうなの?
子どものころから「鳥葬」って怖いなと思ってた。この本を読んでさらに怖くなった。
死んだ70代の老婆のカラダを、ボン教の医僧がまるでヤクを解体するかのように手際よく解剖。ハゲワシが食べやすいように内部を切り開き露出。内臓を引きずり出す。
そして、頭蓋骨を岩で叩き割る(!?)。ここ読んでホルガ村かよ!と思った。見ていた隊員はその後食事ができなくなったという。
翌日にそのあたりに行ってみると、死体はキレイに背骨だけになっていたという。ちょっと離れた場所に肩甲骨が2つ落ちていたという。怖い。怖すぎる。
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