吉村昭「天狗争乱」(1994)を朝日文庫(1999)で読む。
平成4年10月から翌年10月まで朝日新聞夕刊に連載。この本の存在は知っていたのだが新潮文庫版の他に朝日文庫版があるとは現物を見るまで知らなかった。昨年末にBOで110円で見つけたので確保しておいたものをやっと読む。
今年の7月に群馬県の碓氷峠と下仁田に立ち寄った。暑くてあまり歩き回れなかったのだが、いくつか水戸天狗党に関する史跡の存在を示す立て札を見かけた。
天狗党って幕末に筑波山で挙兵した…という程度の知識しかもっておらず、「こんなところまで転戦したんだ」ぐらいに思ってた。
下仁田駅の近くに「野村丑之助の墓」というやつがあった。地元の名士か何かかなと思ってた。野村丑之助は天狗党側の戦死者。なんと12歳。天狗党には十代の若者も多かった。
天狗党は那珂湊から京都の一橋慶喜を目指して移動中に、追撃してきた高崎藩兵と下仁田で激戦を繰り広げていた。
尊王攘夷思想というものは幕末にはおよそほとんどの日本人が持っていた常識的な考え。「神州日本に外国人が居るなどもってほか!」
これがあったおかげで外国人に対して「日本をナメるな!」という気概を持てたし、日本の植民地化を防ぐ一因になったかもしれない。
だが、何でもそうだが、過激に走りすぎるのはダメだ。建白書を提出するぐらいならいいけど、「武装して横浜を襲え!」とか迷惑でしかない。
徳川斉昭や藤田東湖はとんでもないモンスターテロリストを量産した。(吉田松陰もだが)
自分、今まで知らなかった。水戸と関東北部が幕末にこれほど治安崩壊していたとは。ほぼ茨城内戦だし、ほぼアフガニスタン。
天狗党は「軍用金を貸せ」と各地の商家を脅迫し回って金を集めていた。気に入らなければ殺し、火をつける。
とくに粗暴だったのが田中愿蔵隊。若者が多かったせいかもしれないが、栃木の町に火をつけて略奪。各地で暴れ回って恐れられた。
そのせいで反天狗勢力が結集。水戸は門閥派、攘夷派と別れて争っていたのだが、攘夷派の穏健派からも嫌われたし(だから天狗と蔑まれた)、江戸藩邸から藩主徳川慶篤の名代として水戸へ入ろうとして主流派に止められた松平頼徳からも「こいつらと同類と見られたら困る」とみなされた。
栃木の町を焼いたせいで周辺農民からも嫌われる。竹やり持った農民たちも反天狗で殺気立つ。
田中愿蔵隊が追い詰められて解散した後の隊員たちは全員捕縛され、ほぼ全員斬首。火付け盗賊たちの末路。
平和を謳歌した江戸時代の末期、武士たちはもう戦士じゃなかった。天狗党の通り道に有った藩は、幕府から天狗追討令があったとしても「ウチは小藩だから」とお金を渡して間道を案内して他所に行ってもらう。ある意味、日本という国のお役人たちは今もそうかもしれない。
(自民党は天狗党より質わるい。国民のためというのはお為ごかし。支持業界団体の利益のための権力でしかない。だから庶民から福祉のためと称して軍用金を徴収する。)
そして冬の美濃から大野へ。そして降伏。その後の天狗党隊員たちの過酷な運命。
なんと352人が敦賀で斬首。こんなことなら全員死ぬまで戦うべきだった。甘い認識と期待は身を亡ぼす。
首魁・武田耕雲斎は息子の妻子までも斬首。10才~3才なのに?!幕末が信長の時代から人権と言う概念がまったく進歩してなかったことに衝撃。
吉村昭は調べ上げたことを淡々と記述。劇的な面白みはないのだが、知らなかった歴史を教えてくれる偉大な作家。この本でも多くを学んだ。
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