2020年4月15日水曜日

横溝正史「悪魔の手毬唄」(昭和46年)

ついに横溝正史「悪魔の手毬唄」を読む。角川文庫平成8年61刷で読む。
自分、これを16歳ぐらいのとき読んでいると思っていた。今回これを読んでみてまったく読んだ記憶がなかった。

この超有名作の初出は昭和30年代の「宝石」。初単行本化が1971年の角川文庫。意外に最近。映画では昭和27年が舞台になってた。なのでもっと昔からある作品だと思ってた。

小説では昭和30年夏が舞台になっている。1977年の市川崑「悪魔の手毬唄」は多くの点でこの原作小説と違っている。
まず金田一さんは完全な休暇で鬼首村へやってくる。この村が位置的に岡山県だけど交通的には兵庫県からじゃないと行きにくい場所。つまり境界に位置している。

映画では最初からいきなり歌名雄と村の娘たちの三角関係が示されているのだが、この本では手毬唄の伝承と鬼首村について詳しい設定説明から始まる。

村の庄屋さんである放庵が行方不明であることは、5人目の妻おはんの件で胸騒ぎの金田一さんと井筒の女将さんが急行して発覚する。

手毬唄を聴かせてくれるばあさんもキャラ変。映画ではだいぶ耄碌してる設定だったけど、原作では悪意のあるばあさん。磯川警部が「畜生ッ、あのくそったればばあ!」って悪態ついてたのは可笑しかった。

原作では最後の金田一さんによる真相説明部分が座談会形式討論会形式になっているというのは本当だった。残された謎のひとつひとつを関係者が「そういえば」と証言を始めて理由を考えていく。ひとすじなわでない真犯人の殺害動機を納得いく説明を付加していく。これがだらだら長い。

原作は詳細まで細かくちゃんと理由があって伏線を回収しているのだが冗長にも感じた。
市川崑映画はかなり簡略化し映画として完成度の高いものをつくっていた。映画を知ってしまってると原作はかなりくどい。岡山方言会話がひらがな活字だと読み難い。だが、この会話やりとりがこの話の味になってる。

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