2019年6月21日金曜日

H.M.スタンレー「リビングストン発見隊」

リヴィングストンとスタンレーによるアフリカ内陸部探検は欧米人にとってはよく知られた物語なのだが、日本人にとってはなじみがないのと、後にアフリカの多くがヨーロッパ帝国主義の犠牲となってしまった暗い歴史もあって、あまり読まれない。適当で手に入りやすい本があまりない。

講談社青い鳥文庫のヘンリー・モートン・スタンレー作(山口進訳)「リビングストン発見隊」という本が小学生高学年以上向けで手に入りやすい。
自分はこのふたりを高校時代に世界史で初めて名前を知った。本によってようやくこのふたりについて知ることができた。

この本はスタンレー「リビングストン発見記」(1872)「暗黒大陸を横断して」(1878)「コンゴ自由国」(1885)、リビングストン「アフリカ南部伝道の旅と調査」(1857)「最後の日誌」(1874)、ドロシー・スタンレー「ヘンリー・スタンレー自伝」(1904)から、山口進氏がコンパクトにまとめたもの。当時の挿絵がそのまま使われている。

スコットランドに生まれたデイヴィッド・リヴィングストン(David Livingstone 1813- 1873)は27歳で医師に、後に宣教師となり1840年に初めて南アフリカへと渡る。ヨーロッパ人で初めてアフリカを横断した。

当時はまだアラブ人とポルトガル人によって奴隷狩りと売買が行われていた。リビングストンは奴隷売買に強く反対。キリスト教を伝道する目的と、地図上の空白地を埋める野心を持って内陸部へ進む。

南アフリカに伝道所を建てようとしたとき、ライオンに左肩の骨をかみ砕かれ生涯左腕があげられなくなる。
ザンベジ川を探検しカラハリ砂漠を横断する。西海岸ルアンダに到着し引き返し東海岸ケイマネに到着する。1855年にビクトリア滝を発見する。

このアフリカ探検がとてつもなく過酷。食料医薬品を現地人に持ち去られ、救援物資を送ってもらうとまた盗まれ、謎の熱病で生死をさまようという絶望!w 手紙を書いても「自分たちに悪いことが書いてあるに違いない」とスワヒリ人に捨てられる。そしてアフリカ奥地で音信不通の行方不明になりヨーロッパではリビングストン博士は死亡したものと思われる。

そのリビングストン博士を探し出したのがニューヨーク・ヘラルドの記者だったヘンリー・モートン・スタンリー(Henry Morton Stanley 1841–1904)

この人はウェールズで私生児として生まれ母に捨てられ親類を転々とし孤児院へ。強制労働を嫌い船員となりアメリカ・ルイジアナに渡りH.M.スタンレー氏に拾われる。献身的に尽くしたことで同じ名前を名乗ることを許される。アメリカ南北戦争で北軍兵士として従軍。このときの経験から新聞記者になる。
スペイン内乱取材中にベネット社長からリビングストン博士捜索隊を結成し探し出すように要請される。

1871年にザンジバルへ。対岸のバガモヨで荷運びポーターと探検隊(兵士)を集めて星条旗を翻し182人の部隊で出発。
粗暴な現地人の族長に通行税や貢物をしないと通行させてもらえない。布地やビーズ、銅線(?)で取引をする。この交渉がとても困難。現地人が好戦的だったり約束を守らなかったりで遅々としてすすまない。泥水とわずかな食糧しか手に入らない。

そしてマラリア蚊と、ロバや馬をも倒す眠り病を媒介するツェツェバエの襲撃!この当時のマラリア治療法はキニーネ(効くか効かないかさだかでない)を飲む以外にない。多くの隊員を失う。

バガモヨを出発して226日目にタンガニーカ湖のウジジでリビングストン博士の忠実な現地人部下スシとチュマに出会う。そして博士との感動の対面。博士はすでに病で弱り切った体に白髪。これが世界的大スクープ記事となる。
スタンレーとリビングストンは尊敬しあう。師弟愛で結ばれる。一緒にタンガニーカ湖北部とルシゼ川を探検。

博士は帰国を拒む。一旦帰国してしまえばもう老齢の自分にはふたたびアフリカを探検するのは無理だ。
スタンレーは一旦ザンジバルへと戻る。そしてリビングストン博士の死。
スシとチュマの献身でリビングストンの遺体はロンドンまで運ばれる。国を挙げての葬儀となる。

博士の志を引き継いだスタンレーは、当時の地理学の最大の関心事であるナイル川源流がビクトリア湖であることを確かめるために1874年、224人の大探検隊でバガモヨを出発。
ビクトリア湖を周航しここがナイル川の最上流であることを確かめた。

これが世界史上でもかなり過酷な旅。熱病に倒れる隊員たち。毎日ポーターたちが死んでいく。1日平均2~3人の遺体を川に捨てていく。

タンガニーカ湖も周航。やがてコンゴ川で丸木舟のひとつが転覆し濁流に飲まれ十数人を一気に失う。英国人の同志ポコック兄弟とベイカーの全員死亡。
食人族現地人と交戦しまた死傷者。気づけば隊員が半減。恐ろしいまでの致死率。まるで「八甲田山死の彷徨」。いくら大金をもらったとしてもこんな探検もう嫌だ。隊員たちの士気が低下。食料も尽き全員が餓死寸前。

やがてヨーロッパ人の交易のまちエンボマに到着。あまりに多くの犠牲者を出しての大旅行を終える。

ベルギー国王レオポルド二世の要請で1879年に今度はコンゴ川を逆のルートで遡る。ベルギーの植民地コンゴ自由国建国について、ササッと触れてこの本は終わる。
子供向けの本なので、残酷で暗い側面はササッと流す。あまり触れない。

スタンレーは重要な記録と手紙を守るためとはいえ、荷を担いで必死に川を渡るポーターに銃を突き付けて「ぜったいに荷を守れ!」と脅すなど人間性も酷いw 不幸な子ども時代もあって人を信じることができなかった人らしい。後に英国議員にもなる帝国主義人。

英国人とアメリカ人によるアフリカ暗黒部探検がいかに大変なものだったかを初めて知る本だった。リビングストンとスタンレーがいなければ、世界のアフリカ理解はさらに遅れていた。このふたりが強引にこじ開けた。

当時の地名をグーグル地図で調べてみても今のどこなのかよくわからなかった。

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