氷川丸ものがたり(伊藤玄二郎著 2015 かまくら春秋社)を読む。
この本は「氷川丸物語」(高橋茂著 かまくら春秋社 昭和53年)と「氷川丸とその時代」(郵船OB氷川丸研究会 海文堂出版 平成20年)を底本とし、新たな資料と取材した部分を加筆したもの。
現在横浜山下公園に係留されている氷川丸、内部に氷川丸の歴史とあゆみが展示されているのでそちらで見た人はもう十分に氷川丸について知ってるかと思う。自分は氷川丸内部を1度見学したことがあるけど、知らない知識を補完するために読む。
氷川丸は昭和5年に今のみなとみらい地区にある横浜船渠(帆船日本丸が係留)で誕生。その名前は武蔵国一之宮氷川神社から。氷川丸船長は毎年氷川神社を参拝する。
この船は日本郵船の豪華客船。誕生からほとんど神戸-シアトル間、もしくは香港-神戸-シアトル航路を行き来した。
ディーゼルエンジンはデンマークB&W(バーマイスター&ウェイン)社製。この4サイクル450馬力のディーゼル発電機3基を搭載した状態で保存されているのは世界で氷川丸だけらしい。
パリ万博で発表されたばかりのフランス直輸入アール・デコ様式の内装も貴重。
シアトル航路は荒れる海。一等キャビンの窓も人が通れるやっとの大きさ。外板も16ミリでリベットを打って張り付けてる。
昭和6年12月には復路で左舷29度、右舷25度まで傾いたことがある。
氷川丸はとくに食事に力を注いだ。ロックフェラーが「こんなおいしい料理は初めて食べた」と絶賛。
チャップリンも来日時に乗船。英国王ジョージ6世戴冠式に出席した秩父宮殿下もカナダ・ビクトリアから横浜まで乗船。
昭和13年、カイロでのIOC委員会で第12回オリンピックの東京招致を成し遂げた加納治五郎は、帰路の氷川丸船内で肺炎のために亡くなってる。横浜に帰港する2日前のことだった。現在放送中のNHK大河ドラマ「いだてん」でその場面も登場するに違いない。
戦争中は海軍に徴用され病院船として太平洋を駆け回った。シンガポールで触雷に当たり、敵潜水艦にマークされたり、機銃掃射されたりと危険もあった。だが、ハーグ条約の病院船として生き延びた。
高射砲を運ぶよう軍刀つきつけられて脅されても拒否。だが、日本は船舶を次々と失っていくと、暗号書や重油などグレーな物資を運ぶ羽目に。
昭和17年には連合艦隊司令長官山本五十六が患者を見舞うために来船。
多くの患者を運ぶのに活躍。舞鶴で終戦。
戦後は引き揚げ船に。多くの日本人にとって氷川丸は大切な思い出。
占領時代はGHQ管理下へ。戦後初の外航はSCAJAP管理識別ナンバー「HO22」としてラングーンへ。
やがて北海道と横浜、大阪を国内輸送に使われ、再び外洋を渡ってシアトルへ。
宝塚歌劇団が渡米したさいに搭乗した寿美花代はNYマジソンスクエアガーデンの楽屋で、息子を戦争で亡くした老婆からいきなり蹴られたという。
さらにどっちのトイレかわからずまごついてると黄色人種専用を指さされたという。ファーーーック!
そして昭和35年、老朽化のためスクラップか観光船か迫られ、神奈川県と横浜市の要望で観光資源として横浜山下公園に係留。ユースホステルとして宿泊もできた時期があったらしい。
というような氷川丸の歴史を知れる本。あの船は戦前戦中戦後の日本の歴史そのもの。
0 件のコメント:
コメントを投稿