2017年10月10日火曜日

太宰治「ダス・ゲマイネ」(昭和10年)

太宰治「走れメロス」の新潮文庫版を手に入れた。100円。

「ダス・ゲマイネ」を初めて読んだ。ざっくり云うと昭和の初めの変わり者学生の話。
恋をしたのだ。そんなことは、全く初めてであった。それより以前には、私の左の横顔だけを見せつけ、私のおとこを売ろうとあせり、相手が一分間でもためらったが最後、たちまち私はきりきり舞いをはじめて、疾風のごとく逃げ失せる。
冒頭部分からいきなり文体がポップw 意味がよく伝わってこないし句読点のリズムが独特すぎる。
なにやら初恋をテーマにした小説のように錯覚するのだが、そう思って手に取ろうとする女子中高生にはやめておけと言いたいw 
自意識過剰男たちの意味不明で勝手な評論主張を聴かされる短編。

高校時代の自分なら、「理解できない自分が悪い」と考えただろうけど、当時の太宰は時代の先端をいく若手作家。いろんなものをこじらせた若者感をパンクな感じで綴る。わからなくてもいい。
国語の授業が正しい日本語を読み書き理解することを目的としているならば、「ダス・ゲマイネ」のような作品はむしろ悪い教材。

主人公は佐野という帝大生なのだが、馬場という変わり者芸大生の口から出まかせに付き合う。
この話は上野公園が舞台の中心。知ってる場所はいきいきとイメージできる。
やがて佐竹という絵を描く学生と、太宰治という新進作家も加わって「海賊」という雑誌をつくろうという話になる。馬場が口先だけの野郎。悪口を言い合う。匿名掲示板の罵りあいみたいw

今の学生はフツーにアイドルやアニメの話をするが、昔の学生はフランスの詩や哲学や「日比谷にシゲティを聴きに行く」というような話をする。スノッブ野郎ばかりw

「大川を超えて幻燈を見に行く」の意味がよく解らなかった。東向島の玉の井のことかな?
昔の学生はアイドル握手会に出かけるかのように、色街の飾り窓で娼婦たちを見に出かけている。
佐野は「当時、私には一日一日が晩年であった。」「幻燈のまちの病気もなおらず、いつ不具者になるかわからぬ状態であったし」とある。こういうの、中学生じゃ意味を理解できない。

「満願」(昭和13年)という作品はわずか3ページだが、最後のシーンがちょっとわかりにくい。
一瞬「?」ってなったけど、自分はもういい大人なので1秒ほど考えて「まぁ、アレのことだろうな」と想った。
調べてみたら多くの人がこの箇所にひっかかってた。自分も中高生のときに読んでたら意味がわからずにずっと悩んでたと思う。

「今が大事」と、肺病の夫にアレを禁じてたのが「お医者さんの奥さんのさしがね」で「おゆるし」が出る。若い奥さんが「白いパラソルをくるくるっと回して」よろこんでる様子を「美しいものを見た」と感じられる太宰。まさかそれをこんなにも肯定的に爽やかに描けるものなのか?!
これ、俺のまさみでそんなの目撃したら地獄…。

「富嶽百景」(昭和14年)中学生ぐらいのとき読んだことあった。「津軽」みたいなテイストの紀行文エッセイ。
ラストシーンで「なんてイジワルなことするんだ!」「サイテー」と憤ったことだけ覚えていたw
甲府から見える富士が「酸漿(ほおずき)に似ていた。」という箇所がよくわからない。

「女生徒」(昭和14年)太宰が15ぐらいの小娘になり切って、とめどなく思いついたことを書き連ねる日記みたいな作品。とにかく句読点が多い。アイドルPVみたい。読んでいて困惑したが、蘭世で脳内再生して最後まで読みきったw

「駆け込み訴え」(昭和15年) 主イエスを裏切るイスカリオテのユダ、一世一代逆ギレ自暴自棄捨て台詞モノローグ。支離滅裂。勢いがすごい。

「走れメロス」(昭和15年)実はちゃんと読むの初めてかもしれない。とくに感想もない。

「東京百景」(昭和16年)は漂流するだらしない男・太宰の自伝。読んでいてつらい。
「帰去来」(昭和18年)読み方がわからない。「東京百景」よりはいくぶんマシな状態での郷里への帰省ばなし。
「故郷」(昭和18年)いよいよ母危篤で故郷へ。太宰の故郷・金木町と実家を見てきた自分は風景がイキイキと思い出される。自分の個人的事情と体験談を書いた3作品。

この1冊の中で「ダス・ゲマイネ」が一番面白い。今まで読んだ太宰のなかで一番面白いw
「満願」も特別な味わい。

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