昨年の名胡桃につづいて今回は岩櫃城址にも行ってみることにした。
この荒々しい岩肌の山が「真田丸」オープニングにも登場する岩櫃山。
ちゃりらりら~ちゃりりちゃりらりら~♪
登山口はこんな感じ。雪が残っている。
昨年のドラマ放送開始から、多くの人々がこの道を登った。
ちょっとでも雪があると斜面は登れない。冬季の岩櫃山登山は自粛するように要請される。今回我々は城跡のみが目当て。トレッキング用のシューズを持参。
ここで真田昌幸、信幸、信繁が暮らしていたというロマン。
上り坂ラストスパート。あと250m。雪解けの泥道で歩きづらい。冬の間は体力が落ちてちょっとの坂もきつい。
岩櫃城由來記
吾妻八景を代表する岩櫃山(標高802メートル) の中腹東面にあるこの城は、年代は定かではありません が、鎌倉時代初期のころ、吾妻太郎助亮により築城されたといわれています。
城郭の規模は1.4キロ平方メートルと上州最大を誇り、後に甲斐の岩殿城、駿河の九能城と並び武田領内の三名城と称されました。
その後、斎藤氏の支配するところとなり、永禄六年(1563)武田信玄は上州侵略のため、重臣真田幸隆に岩概城攻略を命じました。ときの城主は斎藤基国(または憲広)といわれ堅城を利して奮戦しまし たが、ついに落城してしまいました。
こうして岩櫃城は武田氏の手中に落ち、信玄は幸隆に吾妻郡の守護を命じました。
天正二年(1574)に幸隆が世を去り、岩櫃城主には長子の信綱が収まりましたが、 翌年、長篠の戦いで信綱、昌輝兄弟が戦死したため、 真田家は幸隆の三男、昌幸が相続しました。
その後、 昌幸の長男信幸が支配し、信幸の弟幸村も少年時代をこの城で過ごしたといわれています。
天正十八年 (1590)北条氏の滅亡により、信幸は初代沼田城主となり、岩櫃城は沼田の支城として、重臣出浦対馬守を城代としました。
そして、幾多のドラマの舞台となった岩櫃城も徳川家康が発した一国一城令 (慶長二十年)により、四百余年の長い歴史を残し、その姿を消しました。難攻不落の天然の要害。
東吾妻町観光協合
ここを攻め落とすのは大変だ。城跡で40分ほど過ごした。我々以外にも3組ほど見物人がやってきていた。
岩櫃城の直下の集落。きっと戦国時代からここに住んでいるに違いない。この城を攻めると、昌幸によってこの集落の奥へと誘い込まれ、上田の戦いのように罠にはめられるに違いない。
こののち、我々は中之条町へと移動。四万温泉に1泊。翌日、沼田へと戻る。
沼田市では真田丸展を開催中。3月31日まで。
パネル展示と撮影で使用された小物などを見ることができる。入場料500円。内部の展示物は撮影禁止。
オープニングで使用された題字の六文銭のあれ。実物。一部は撮影可能。
「PC壁紙をつくろう」という展示は良かった。
あと、キャスト全員のサイン色紙が飾ってあったのだが、こちらは撮影禁止。
展示をしっかり見てクイズに答えるとカンバッヂかボールペンを貰える。
沼田は街を挙げて真田丸だった。
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