「キスカ島 奇跡の撤退 木村昌福中将の生涯」将口泰浩(2009)という本があるので読む。
これは110円握りしめてなにか面白そうな本ないかな~とBOに文庫本仕入れにいって連れ帰ったもの。著者は産経新聞記者、社会部編集委員だった人らしい。
2009年に産経新聞出版から「キスカ 撤退の指揮官」として刊行後、2012年に新潮文庫化。
自分、戦争の歴史本とか読むけど、木村昌福中将のことを何も知らない。キスカ島とアッツ島がどこにあるのかも知らなかった。
キスカ島とアッツ島はアリューシャン列島西端にある島。日本海軍はミッドウェー海戦の陽動作戦としてこの島を占領。太平洋戦争で米国が日本に占領された自国領土はこの島だけ。だが、この島を占拠したことはミッドウェー海戦に何も影響を与えなかった。
後にアッツ島は2638人の守備隊が玉砕したのだが、キスカ島5183人全員を撤退帰還させた木村の功績は米軍から「パーフェクトゲーム」と言わしめた。
木村昌福(きむらまさとみ、1891-1960)は静岡中学を経て江田島の海軍兵学校(41期生)へ進んだ海軍軍人。学校での成績は平凡。(静岡中も海軍兵学校も入るだけでエリートなのだが)
兵学校卒業時の席次は118人中で107番。木村を知る人は「頭は良かった」と証言するのだが、本人は海軍大学を受験する気もない。この「ハンモックナンバー」では要職につける見込みもない。(同期で一番の出世頭は草鹿龍之介)
海軍ではこの順位がずっと出世レースに影響を与える。(兵学校卒業生はなにもしなくても大佐までは行けるらしい。)
だが、木村は艦隊勤務一筋で人間的魅力を深めていく。部下を叱ったりしない。兵の命を無駄にしない。人望が集まる。
少尉候補生として巡洋艦八雲に乗って第一次大戦で青島でドイツ軍と戦ったのが初陣。
シベリア出兵では尼港事件に遭遇。(大正9年5月24日午後12時、忘レルナ)
重巡洋艦鈴谷の艦長になる。昭和17年10月のガダルカナルでは魚雷をすんでのところでかわす。
一旦は舞鶴で地上勤務するもラバウルへ。貫通銃創を負う。再び帰国。
傷がいえると阿武隈艦長の穴埋めとして大湊から幌筵島。
5割の陸兵を帰還させても大成功というキスカ島撤退作戦。キスカ守備隊はアッツ島玉砕を知っている。みんな死を覚悟。
鍵となるのは当日の霧の有無。視界が悪い状態で臨みたい。若い気象士官の予報で1日延期。こんな重大な責任ある予報をするとか想像しただけで胃が痛い。しかし作戦すべての責任は木村が負う。
さらに2日延期。燃料の残量から作戦決行はあと1日のチャンス。突然暗号伝「ス・ス・ス」それは「決行ス」の「ス」だ!
しかし、やっぱり晴れ間が見える。これでは哨戒機に見つかる。もうダメだ。幌筵へ帰島。木村はかなり慎重だった。慎重すぎて批判も。
しかし撤退は完璧に成功。全員帰還。みんなで喜びを分かち合う。アッツ島かキスカ島かに配属されるかで兵士は生死が分かれた。亡くなった方は気の毒としかいいようがない。
アッツ島の玉砕攻撃にビビった米軍は慎重に上陸してきたのに、島がもぬけの殻だとは思いもよらず、同士討ちなどで多大な損失。
木村昌福は海軍兵学校防府分校の校長として終戦。終戦後に中将へ昇進したけど、それはもう無意味。
終戦後は防府で製塩業をやってみる。仕事を失った部下たち仲間たちのために。だがやがて技術革新と塩の過剰生産のため法改正もあって廃田。
昭和32年文芸春秋11月号に「キスカ撤退作戦」のことが掲載。初めて世間が木村昌福の偉業を知る。
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