2023年4月22日土曜日

吉村昭「雪の花」(昭和46年)

吉村昭「雪の花」を新潮文庫で読む。昭和46年に「めっちゃ医者伝」として新潮社より刊行されたものを、文庫化するときに大幅に補筆し「雪の花」へと改題。(めっちゃとはあばたの福井での呼び方)
当時の最先端医療技術である「種痘(天然痘の予防法)」を福井藩に伝えた町医・笠原良策(1809-1880)の生涯を描いた一冊。158ページなので吉村昭としては比較的ボリュームが薄い。

天保八年(1837)、冷害と長雨による凶作。そして天然痘の流行。京、大坂でも多くの死者。福井でも千人を超える。遺体の入った桶を乗せ焼き場へ向かう大八車をやるせなく見送る町医の笠原は、どうすれば人々を救えるのか?と考える。しかし、自分の知ってる漢方の医学では天然痘への対処の方法がわからない。

温泉地で同業者と遭遇し意見交換。蘭方の医学は進んでいるという相手に、漢方医の笠原は反発するも、ここは蘭方も学ぶべきだと考え直す。そして京都の日野鼎哉に入門。
どうやら、西洋と唐では牛痘にかかったものは一生天然痘にかからないことが知られていた。英国のジェンナーの種痘という方法が効果的らしい。

だが牛痘の苗をどうやって手に入れれば?そこは長崎に入港するオランダ船に頼るしかない。すでに佐賀鍋島藩では種痘で成果を出しているらしい。
しかし、その痘苗をどうやって手に入れれば?そこで藩主松平春嶽へ嘆願書を出すのだが、役人によって途中で止められてるらしい…。絶望。

それでも日本中の研究熱心な名医たちと交流。こうなったら自分が長崎に行ってみようか…と考えていたら、日野鼎哉がバタヴィアからの苗を長崎奉行所唐通司頴川四郎八から手に入れていた!

自分、今まで幕末日本でどうやって種痘が広まったのか?まったく知らなかった。牛痘苗を培養する設備がないのに。なんと、子どもの腕から腕へと、どんどん種を植え付けて繋いでいくという方法。
京都で数人の子どもで針で痘苗を植え付け、発痘(発疹)が出たら成功。また膿を取って他の子どもの腕に植え付けていく。なので7日ごとに誰か植え付ける子どもを連れてこないと苗が断たれる。

一刻も早く京から福井へ伝えたい。子どもとその両親をお金で雇い入れるのだが、種痘という全く未知なものを受け入れる説得をするのが毎回一苦労。親は子どもにそんなわけのわからないものを植え付けさせたくない。
それでも子どもから子どもへ種を繋いでいく。村人が止めるのも聴かず大雪の栃木峠を越える。
あわや遭難という事態。まるで新田次郎の山岳遭難小説。この本のクライマックス。(吹雪の中の移動の風景が新潮文庫版の表紙イラストだと思う。)

だがやはり医者なので抜かりない計画。反対側の村へ知らせて置いて迎えに来てもらうなど用意周到。

やっとのことで福井藩内に伝えられた種痘だが、京、大坂、長崎と違って文明からほど遠い福井の町民たちは種痘という未知な物に不安と嫌悪感。
令和の今であっても反ワクチン派がいるのだから致し方ない。町で村で石を投げられたりするのも今のSNSを連想。

なにせ外国からのものが禁制の時代。笠原がどれだけ説得しても親たちは子どもを寄越してくれない。さらに藩の役人たちも冷たい。藩医も冷たい。種をどんどん繋いでかないと絶えてしまうという焦り。
笠原はやせ細っていく。怒りに任せて役人たちを糾弾する口上書を書いて仲間の医師たちから気が狂ったと思われる。

不思議だ。種痘に効果があったのなら口コミで伝わっていくはずなのに。苗を植えた子どもだけが天然痘にかかっていないという事実があるのなら、真実に気づくはずなのに。なぜか福井藩は沈黙。

だが、笠原の種痘は前田藩、鯖江藩、敦賀藩へと広がってゆく。松平春嶽が福井に帰ってくると事態が急変。なぜか役人たちが動き出す。
春嶽の側用人中江雪江、福井藩医の半井元冲、鍋島藩医の伊東玄朴、大坂に緒形洪庵といった志の高い名医たちがいたことで笠原の仕事は評価されていく。

今回読んだ吉村昭もひたすら淡々と出来事と経緯を並べて行く。そっけないかもだがむしろそこが良い。中高生にもオススメ。

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