2022年1月2日日曜日

吉村昭「大黒屋光太夫」(2003)

吉村昭「大黒屋光太夫」を新潮文庫上下巻で読む。2003年に毎日新聞社より出版され2005年に新潮文庫化されたもの。

「漂流」という小説と同じような雰囲気で始まる。こちらも天明年間に伊勢国白子の浦から江戸へ向かう途中、発達した低気圧によって北西風に流され漂流。それにしても和船は嵐に弱い。かんたんに難破船と化す。

光太夫らを乗せた神昌丸は紀州藩の米を運んでいたので餓えることはなかったのだが、やはり飲み水に関してはギリ。漂流中に1名死亡。
「漂流」の長平らは南に流され湧き水もなく木も生えない火山島に流されたのだが、光太夫ら17名は7か月漂流した末にアリューシャン列島アミシャツカ島(現アラスカ州アムチトカ島)にたどり着く。

なにやら顔に奇怪な風習をした先住民の島だった。そして羅紗素材の衣服を着たロシア人に遭遇。わりと親切な人でいろいろと助けてもらう。すこしずつロシア語を覚えていく。だが、寒さと栄養不足で気づけば5か月の間に仲間は半減。

リーダーらしきニビジモフは島に交易のため来ている。ラッコの毛皮と交換に島の生活物資を供給してるのだが、だんだん船が来なくなる。交換に応じなくなる。そして妾にしていた島民の娘を殺害。原住民とロシア人たちの戦争に発展。
襲撃してきた原住民を銃で蹴散らす。ロシア人に恩義がある光太夫たちは逆らえば殺されるかもしれないしでロシア人に加勢せざるをえない。
ロシア人は昔から露助。山景に集まった島民たちの隙をついて集落の女子どもをロープでしばって連行し人質に。人質を解放するのと身代わりに人質になった島のリーダーたちを銃殺処刑。残酷。

ニビジモフは迎えのロシア船がやってこなくて焦る。やっと来た船が島のすぐそこで座礁難破。結果、さらに漂流民増える。だが、なんとか船をつくってやっと島を離れる。光太夫らも一緒に。

1か月かかる航海で渡ったカムチャツカが島と大差ない貧しい集落。さらに3名死亡。これで仲間は6人になってしまう。
現地の代官が意外に親切。光太夫らを住まわせる。さすが広大な領土を支配し多民族と接してきたロシア人。言葉が通じないのに身振り手振りでなんとなく意思疎通。
スープの正体が牛の乳を入れたものと知ったとたんに食べなくなる。昔の日本人は牛の肉すらも毛嫌いし食べない。

光太夫を訪ねてくる者があった。なんと日本人父とロシア母の混血児。父も南部藩佐井村の水主だった漂流民で現地に暮らして土になった者。日本語を話す。いろいろ世話を焼いてくれる。お互いに身の上話。
この日露混血青年の妹が仲間の磯吉と男女の仲になってしまう。これでは日本に帰郷する気がなくなってしまうのでは?と心配。

親切なカピタンが任期を終えオホーツクへ帰ることになる。光太夫は磯吉を一緒に行くことを説得。涙ながらの別れ。経由地のチギリがやはり食糧難。オホーツクまでの航海が水も食糧もギリギリの悲惨な航海。
現地代官へ日本人漂流民として連れていかれる。ヤクーツクへ向かうよう指示。ここでも食事や防寒具、生きるのに必要なお金も渡される。

人家5,6百もある大きな町ヤクーツクは伊勢出身の光太夫らにとって経験のない寒さ。現地で「夏は夜も昼のように明るい」という話を聞かされるが光太夫は信じない。

さらにイルクーツクへ。あまりに寒さが厳しく道中で庄蔵が足に凍傷を負う。あまりの痛さに泣きわめく。膿んで骨まで見える状態。可哀想だがこの町に置いていくしかない。だが庄蔵は置いていかないでくれと懇願。
人家三千戸のイルクーツクには貧しい者に医療を施す施設があった。そこで医師から庄蔵の脚を切断しなければ死ぬと言われて光太夫は顔面蒼白。そんな医療ってあるのか?

そんな絶望の中でカピタンと再会。光太夫をいろんな人と引き合わせる。当時のイルクーツクの人々がヤッポンスカヤ(日本)の存在をある程度知っていて意外。
そして高名な学者でもあるキリロ・ラクスマン陸軍中佐に引き合わせてもらう。漂流の経緯とこれまでを語るとラクスマンは同情し涙。皇帝へ陳情し日本への帰国を実現させようと動き始める。
イルクーツクでは大きな家で漂流話をして食事を御馳走にもなる。当時のロシアは辺境でも進んでいた。日本では漂流民は罪人扱いなのに。

さらに父親が日本人だという青年が訪ねてくる。父と仲間たちも帰国の夢かなわず、現地で結婚して死んだ。どうやらロシアは日本人に日本語教師をさせ日本語のできる人材を確保することが目的か?光太夫らを帰国させる気などないのではないか?と疑心暗鬼。

そして下巻。
キリロがペテルブルクに書いた陳情の手紙に対して「ロシアに留まって士官すべし」の回答。いやいやそうじゃなくて…とまた手紙を書くのだが返事が来ない。
こうなったら一緒にペテルブルクに行こう!

イルクーツクからペテルブルクまで1か月の長旅。ラクスマンさんは費用を負担。
やっとペテルブルクに着いたと思ったら皇帝はツワルスコエ・セロへ避暑に出かけてて9月まで帰ってこない。もう絶望。このままロシアの土になるしかないのか…。イルクーツクに残してきた者たちの病状も心配だ。
「皇帝に直訴しよう!」「え、何いってんの?直訴なんてしたら死罪になるじゃん?」「え、ならないけど」
なんの得にもならないのにラクスマンさんの頑張りがすごい。「希望を棄てるな!」

ラクスマンさんのコネ人脈のおかげでまさかの皇帝の謁見が許可。衣装を整えてマナーの練習。そしてついに光太夫は女帝エカチェリーナ2世に謁見。
この女帝が光太夫に同情的で好意的ですぐに帰国の許可が下りる。やはり手紙は外務大臣のところで止まってた。エカテリナ帝はこの一場面を見ただけで名君。

金貨銀貨やいろいろな下賜品もくれた。メダルも授与。光太夫は皇帝に2度もお目通りしたことで有名人。大臣たちから歓待を受ける。日本の文字が書けてロシア語も覚え知識が豊富で聡明な光太夫は船乗りにすぎないのに一目置かれる。学校で露日辞書の校正も頼まれる。
何度も固辞したのに強く勧められた結果、皇太子の馬車で帰ってきたときは優しいキリロも宿泊先の夫妻も「外国人だからってやっていいことと悪いことがあるぞ!」と激怒。光太夫恐縮。

だが、その間にイルクーツクの最年長60歳の九右衛門が死亡。庄蔵と新蔵は無断で宗旨替え。これによって連れ帰ると国法に触れるので帰国が不可能に。
この二人との別れのシーンが切ないし非情。ギリシャ正教の教義も何もわからないまま洗礼を受けただけなのだから、そんなもん余裕で幕府をごまかせるだろ。連れて帰ってやれよ。

そしてオホーツクからアダム・ラクスマン中尉26歳(キリロの次男)を団長とする大使節団を乗せたエカテリナ号蝦夷へ出発。漂流時に17名いた日本人は光太夫、小市、磯吉の3名のみ。
だが、小市は松前藩に引き渡す前に蝦夷で死亡。あともう少しのところで憐れ。

江戸へ到着した光太夫と磯吉は従来の定説では幽閉状態となった…とされていたらしいのだが、吉村先生は磯吉の証言を書き残した資料も発掘。ふたりは幕府から貴重な人材として丁重に扱われていたらしい。穏やかな日々を過ごしたらしい。
後のレザノフ来航、文化三年のロシアによる択捉樺太会所襲撃事件、ゴロヴニン事件についても光太夫は幕府の蘭学者たちから意見を求められたらしい。結局、日本とロシアの修好と交流は何も進まなかった。

光太夫の証言を書き記した蘭学者桂川甫周「北槎聞略」もいつか読もうと思う。

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