2018年11月7日水曜日

半藤一利・加藤陽子「昭和史裁判」(2011)

半藤一利・加藤陽子「昭和史裁判」(2011)の2014年文春文庫版がそこに100円で売られていたので、昭和史のお勉強のために購入。この本、わりと安価でよく見かける。

あの戦争は「軍部が悪い」だけではすまされないということで、戦争中の政治家たちを半藤氏が検察側、加藤氏が弁護側、文芸春秋編集部による司会で、5人を俎上にあげる。知のエリートが戦前のエリートを断罪。

第1章「広田弘毅」、第2章「近衛文麿」、第3章「松岡洋右」、第4章「木戸幸一」、第5章「昭和天皇」を扱う。あらゆる資料を読み解いた半藤・加藤が、その行動、発言、責任を追及。意外な人間関係や裏話も交えた読物。

まず広田弘毅
この人は庶民出身の外交官。サラリーマンの愛読書・城山三郎の小説で人気の立身出世の宰相。
だが、エリートたちから見れば「あきれるほど無定見、無責任」と大不評。昭和天皇からも嫌われた。

日中関係が最悪に陥っていく時期に長く外相と首相を務めてしまったのも不運だが、重大な局面で痛恨の失点を重ねた。
陸軍に入るかソ連外交のみに専念していれば十分にその才能を活かせた。一国のリーダーになっては一番ダメなタイプの人だった。

広田は文官ただ一人の死刑判決となってしまったが、最大の命取りが「国策の基準」という、本来であれば国家の機密を5相会議という記録の残る場所で「共同謀議」してしまったこと。これは東京裁判でまったくいいわけのできない不利な証拠。

南京事件でも不可思議なまでに何も行動していない。トラウトマン和平工作も(ドイツに点を稼がせたくないという事情があったにしても)潰してしまった。

裁判でも外務省東亜局長・石射猪太郎が弁護側証人として出廷するも、広田の弁護はしてないという…。
親しみの持てる風貌なのに、好き嫌いの分かれる難しい人だったようだ。

そして近衛文麿。第一次近衛内閣発足時に46歳。国民的に人気のあった青年宰相。

半藤氏の東大ボート部時代のセンパイが近衛首相の牛場秘書官。この人によれば近衛さんは庶民が理解できるような人ではなかったらしい。
五摂家の筆頭の近衛家は江戸時代に男子が絶えたとき、後陽成天皇の第四皇子を迎え入れている。それはもう名門どころの家じゃない。藤原家の女と天皇家の男子の家系。

だが意外にも近衛家には金がなかった。朝鮮満洲のアヘン利権を政友会に流した原敬、三菱創業家の女婿だった加藤高明、陸軍機密費を使った田中義一のようにはいかない。

第3章は松岡洋右。苦学してオレゴン大を卒業し外務省。なのにアメリカが嫌い。41歳で外交官に見切りをつけて政治家へ。
半藤氏は「国民と陸軍だけに話しかけてたポピュリスト」と評する。

昭和天皇が靖国に行かなかったのは松岡と白鳥がいたから?「三国同盟が国を滅ぼした」と昭和天皇は言っていたらしい。松岡と白鳥敏夫は昭和天皇から嫌われた。

日独伊三国同盟は連戦連勝だったドイツに惑わされてしまった結果だと思っていたけど、「こりゃドイツが英国に勝つな」と戦後を見通してのことでもあった。
勝者になりそうな側と同盟して戦後を迎えないと、ドイツから勝ち取った太平洋の委任統治領と、仏印、シンガポール、オランダ領インドネシアもどうなるかわからない…と焦った結果だった。

南仏印進駐がアメリカを決定的に怒らせた一線となった。
今現在、西沙諸島と南沙諸島で一線を越えようとしている中国に対し、加藤「中国共産党幹部は日本の南進の歴史をきちんと学んだほうがいい」w

第4章は木戸幸一。官僚から政治家。戦争中ずっと天皇の側近。
半藤氏は「木戸日記を読むとコイツはゴルフしかしてねえ!」「ハンデキャップ10なんてこの時代の日本人にいねえ!」「明治維新の元勲の孫で出世して気に入らねえ!」w

木戸と近衛は学習院・京大法学部の同級生。なんと、近衛は身長が180cmだったのに木戸は152cm。そういう情報は歴史の本を読んでも気づかなかったわ~。

第5章で昭和天皇。
昭和天皇は満洲某重大事件のときに田中義一首相に「話が違う!」と言ってしまい、元老西園寺からお小言をもらった。以後、上奏に対して何も言わなくなった。
鈴木貫太郎は聖断によって戦争を止めた。近衛はこの手があることを考えてもいなかった。

今度は半藤氏が弁護側に。だが、いくつかの場面でかばいきれない事態も…。木戸と天皇は一心同体。ところどころ木戸が悪い。広田が死刑になっていなければ木戸に死刑判決が出たかもしれない。

どれもすぐに役に立つ知識じゃないけど、後々、そういえば半藤氏と加藤氏がそんなことを話してたっけ…、という役にたってくれそうな本だった。

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