2018年10月25日木曜日

吉村昭「深海の使者」(1973)

吉村昭「深海の使者」を読む。1976年版文春文庫で読む。自分、この本の存在を知らなかった。昭和47年から48年にかけて文芸春秋に掲載されたもの。
おそらく潜水艦もの。自分はまだ太平洋戦争における潜水艦に関する本を読んだことがなかった。

日独伊は三国軍事同盟だったけど、連合国とは違って、戦争中に首脳同士や軍の幹部同士が直接会って双方で意思を確認したりすることがほとんどできてなかった。
駐在する大使や武官との連絡は暗号無線に頼るしかない。では人や物はどうやって送り届けていたのか? 

なんと潜水艦で送り込んでいた。当時日本が占領していたペナンから、ドイツが占領していたフランスのロリアンかブレストまで、インド洋を横断し喜望峰を回って、英軍哨戒圏をかい潜り2か月間の命がけの大旅行をしていたのだ。帝国海軍は遠く大西洋までにも進出していた。インド洋、大西洋で戦死した日本兵もいた。それ、今までまったく考えが及んでなかった。

独ソ戦が始まるまではシベリア鉄道や空路も使えた。だが、独ソ開戦後は、東條や陸軍はソ連を刺激すること極度に恐れた。当時ドイツ占領下だったクリミア半島から中国北部の包頭までの直線ルート(イタリア軍輸送機サヴォイア・マルケッティSM-75機)がソ連領空を通過することを問題視。アリューシャン上空を通るルートですら許可しない。

最初の経路開拓でドイツへ派遣された伊号第30潜水艦は華々しい成功だったのだが、帰路にシンガポールで英国軍の機雷に触れて沈没…。
インド独立の闘士チャンドラ・ボースは亡命先のドイツから日本へ、潜水艦で脱出し潜水艦へ乗り移ってた。

意外だったのが潜水艦内部が暑いということ。周囲が海水なので流水で冷却されてると思いきや、赤道付近を航行してるときは汗と脂にまみれろくに体も洗えない。それに狭い密閉空間に人員が詰め込まれている。食事も缶詰しかない。高級将校も一兵卒も同じ。これはつらい。Uボートはさらに狭い。

敵機の襲来のときは深く潜航。なかなか浮上できないときは二酸化炭素濃度が上昇。息が詰まる。爆撃には息をひそめて艦の無事を祈るしかない。潜水艦乗組員にはなりたくない。

戦争中はドイツも物資が不足。命がけで南方から錫やゴム、マニラ麻などを運ぶ。だが、たいていが英国空軍機や艦船に攻撃されていた。
人員の不足は暗号無線通信の質にも影響。業を煮やした日本外務省はドイツの日本大使館と直接電話することに。鹿児島弁が使えるもの同士で早口なら大丈夫だろう。
だが、米軍陸軍情報部に鹿児島の同じ村の出身者が居た。バレてた。

ノルマンディーに連合国軍が上陸。日に日にドイツ降伏が迫っている。ドイツに駐在していた日本人のベルリンからの脱出。そして中立国スウェーデンへの脱出。ドイツの降伏前後の出来事を自分は何も知らなかった。

海軍からの指令で帰国の途中でドイツ降伏という事態に遭遇した二人の技術中佐がUボートで自決したのは悲しい。東京帝大卒でドイツで研究活動し日本に技術を持ち運ぶはずが虚しい死。なにもかもが永遠に失われる。

潜水艦はいつどこで沈没したのか詳しいことがわからない。米軍の交戦記録を読み解くしかない。艦長と100名以上の乗組員、そして便乗者が海中に沈む。爆雷で撃沈された潜水艦はやがて水圧でつぶれる。その音は相手艦が聴いている。悲惨すぎる。

吉村昭の本は何を読んでも毎回自分に知らなかった歴史の1ページを教えてくれる。この本も同じ。読んでいてまったく飽きなかった。広くオススメする。とにかく戦争は壮大な資源と人材の無駄遣い。

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